私たちの先祖である江戸時代の人達は、いったいどんなものを食べてきたのでしょう。
江戸庶民の普段の日常の食事に注目してみていきましょう。
江戸っ子の泣き所は虫歯
最近、江戸時代の人骨が出土してニュースになりましたが、江戸時代のひとの歯を調べると虫歯で亡くなることがあったそうです。
なんと死因のトップが虫歯なんだとか! ちょっとびっくりですよね。
江戸時代は今のように虫歯を治療する技術がありませんでしたので、虫歯になれば麻酔なしで抜糸するしかありませんでした。
なので虫歯を放置してしまい、アゴの骨の中に虫歯が膿を形成してしまい、細菌が血液中に入り敗血症となりなくなった人も多かったそうです。
「虫歯が多い」これはつまり、栄養状態が良いということを意味しています。
江戸の食事はおかずに対してご飯の割合が多く、1日で5合食べていたといいます。
1人でですよ!現代の人から見たら本当に不思議な量です。
それには一つ理由がありました。
江戸の町は火事が多く、それだけ大工の仕事が多かったようです。
明暦の大火(1657年)は江戸の町に膨大な被害をもたらしました。少なくとも3万人、最大で10万人が犠牲になったと言われています。多くの建物が焼けてしまったので、幕府は大急ぎで再建を目指します。
他にも飛脚、商人や職人も店で待っているのではなく、棒で物を担いで売るスタイルだったので体力を使います。
今でいうデスクワークをしている人はいましたが、子や陸尺(駕籠を担ぐ人足)、日雇いなどの力仕事何等かの形で身体を使う商売が多かったようです。
江戸時代は肉は食べませんから、エネルギーは必然的にご飯から摂るような形になったのでしょう。
江戸の定食
そこで家に帰らずともご飯が食べられる定食を浅草寺の門前で売り出したところ、これが好評でヒットしました。「奈良茶飯」という定食です。
もともとは奈良の寺で食べられていた、米に勝栗(かちぐり)、大豆、小豆、アワなどをお茶の煎じ汁で炊いた炊き込みご飯の郷土料理ですが、江戸では奈良茶飯に汁と菜をつけて定食スタイルで出されたのです。
今もランチは定食スタイルが多いのはこの名残でしょうか。
江戸のちょい足し
ご飯は基本的に朝、炊きます。朝にホカホカご飯を食べると、ジャーはありませんので、お昼ごはんと夕飯は冷や飯ということになります。
おかずは棒手振(ぼてふり)と呼ばれる行商人から買って食べればそれでOK。
昼はおにぎり持参で仕事に行く人が多く、それだけで足りない人は屋台で天ぷらなどちょっとつまむものを買って食べました。
夜は冷たいご飯なので、さすがに消化にも悪そうですし、お茶をかけてささっとお茶漬けにして食べました。あとは「四文屋(しもんや)」という屋台からお惣菜を買って、酒のアテにすることもありました。
江戸の屋台文化
明暦の大火の後、江戸の各所に火災の延焼を防ぐための火除地(ひよけち)や広小路(ひろこうじ)と呼ばれる空地が設けられました。
江戸の下層庶民たちは、この空き地を盛り場的な営業地ととして利用していました。
露天商である屋台見世(床見世)・葭簀張(よしずばり)の茶店、流れ巡業を行う芝居や見世物小屋、屋台が固定化した「小屋掛・居見世」「飯屋」ができ、庶民の食事処として登場します。
江戸は男性の比率が高く、男性は女性の1.5倍でした。江戸っ子は気が短いので、すぐに食べられて、空腹を満たすものとして蕎麦や天ぷらやウナギのかば焼きなどはうってつけでした。
江戸時代の寿司は今のものよりもはるかに大きく、まるでおにぎりのようで、今の2倍~4倍あったとのことです。サイズでこれもまた男性向けのサイズということになります。
ネタはエビ、コハダ、白魚、たこ、いか、たい、アナゴ。トロは不人気で「猫またぎ」猫がまたぐほど不味いといわれていました。
今でも日本人の好みはさっぱり嗜好だと思いますが、江戸時代の人達はさらにさっぱり好きだったようですね。
出典:
奈良茶飯|料理昔ばなし
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